「感謝されたい」「よく思われたい」という行いの結果に対する期待と執着

自分の思考や行いや発言に意識的であり続けることは簡単ではありません。生活しているとすぐに感覚器官の自然な反応が優位になり、様々な行為に対し無意識になってしまう、これはだれもが経験していることです。

意識を内側に向けることで「今この瞬間」を感じることができますが、いつもその状態でいられるためには継続的な練習が必要です。

無私の行いとは

バガヴァッド・ギーター3章18節
For him there is no interest whatever in what is done or what is not done; nor does he depend on any being for any object.

そのような者にとってこの世における行為によって得られるものはなく、また、いかなるものに対しても依存することはないのだ。

この「そのような者」とは、ひとつ前の詩節で説明されてるのですが、無私の奉仕行為の目的は絶対者ブラフマー(真我/宇宙意識そのもの)との合一、つまり悟りを得た人のことを指しています。その境地に達した人には、もはや果たすべき義務や無私の奉仕行為がありません。

真我であるブラフマーとの合一に達した聖者は、対立する二極の感情の影響を受けません。それゆえに外の世界のすべてのことに対して欲望を持たず、飢えや渇き、または肉体の苦痛や快楽にも心を混乱させられることはないのです。

バガヴァッド・ギーター3章19節
Therefore without attachment, do thou always perform action which should be done; for by performing action without attachment man reaches the Supreme.

それ故に、執着することなく常に為すべき行為を為せ。というのも、執着なしに行為を行えば人は究極存在(パラム)に達するからである。

この詩節でも繰り返し、解脱において最高の境地に達した聖者のみがカルマ(行為)の束縛を受けずにいられること教えています。このような聖者の域に到達するまでは、解脱を望もうと、束縛を望もうと、カルマ(行為)の遂行という束縛から逃れることはできません。

何度か書いていますが、この人生における目的というのは私たちの魂によってそれぞれ異なります。物質的な物事に強いこだわりを持って、感覚器官を楽しませる生き方を望む人も多くいるでしょうし、魂の成長を求めて解脱を目的にしている人もいます。この詩節で書かれているのは、どのような目的を持っているにしても、解脱のステージに到達しない限り、カルマの束縛と影響を受け続けるということです。

そして「解脱」を望むのであれば、自分に与えられた課題と義務を無私の奉仕行為として遂行しなければなりません。

「えー、解脱とか魂の成長なんていうややこしい話は興味がないよ。」と思う人もいると思います(というより、ほとんどがそうかもしれません)。しかしヨーガでは、私たちの全ての魂は成長を求め、魂レベルを高めることによって真我に到達することを目的にしているといいます。今の人生において物質的な価値観に比重をおいた生き方を選んだとしても、次の人生、あるいは次の次の人生で、精神的な生き方を求め、最終段階である解脱を目指すとされます。

「感謝されたい」「よく思われたい」という行いの結果に対する期待と執着

この物質世界において、私たちはみなそれぞれの役割や義務をもっています。

物質世界における役割

会社勤めをしている人は、その組織が求めていることや利益となることを考え、自分ができる最善の行いをします。その組織での人間関係のあれこれであったり、お給料がどれくらいでそれは自分の行いに見合っているかどうかという、その仕事における自分の価値の探求に夢中になることは役割ではありません。そういった物質的報酬による自己評価(結果)や、に夢中にならず、その会社、コミュニティにおいて自分にできる最善の行いをすることが無私の行いです。

家庭を取り仕切る一家の主婦/主夫であれば、子供やパートナーが健康で快適な生活を送れるための工夫をし、行いを捧げます。家族というのはこれまでの過去世において繋がりと相互に影響を与える魂で、共に魂の成長を目指すコミュニティです。

期待から生まれる結果への執着

行いを捧げるというのは、自分が家族の一員に対して行なったことの相手からの反応という結果(喜ばれるとか疎ましいと思われるとか)を手放すことです。

「良かれとおもったのに感謝されない」「こんなにしてあげたのに」「喜ぶとおもったのに」

という期待から生まれる結果への執着を、もっと高い視点に立つことによって解放します。

感情的な評価というのは相手ありきの結果であり、コントロールすることはできません。自分の行いに対して相手がどのような反応をするか、受け取り方をするかはその人の選択であって、行為を行った人のものではありません。自分にできる最善の行為をしたあとは、結果に執着せず感情の束縛から離れる努力をします。

近しい存在が自分のことを思って捧げてくれた行為に、感謝の心を持てない人は、そういったカルマを積んでいきますが、これもその人の責任であり、誰かが(親やパートナーが)肩代わりすることはできません。

このように無私の行為によって感覚器官を浄化し「自我意識」という小さな世界の捉え方から、もっと大きな意識(宇宙意識/ブラフマー/真我)と自分を結びつけることがヨーガといえるでしょう。

私たちの役割と自分にできること

さて、私たちは誰しもが、自分の義務と役割を持っています。
私はヨーガを教える仕事をしていますが、ヨーガの先生の義務とはなんでしょうか?

ヨーガ聖典の学びに日々取り組み、自分に合った方法で智慧を理解することに努めること。生活や他者との関わりにおいてヨーガを実践することでより深く智慧を理解し、そこで得た経験を伝えることが私の役割です。この先、ブログ以外のプラットフォームでもヨーガの学びになることを発信していく予定ですが、今は文章がメインなので、過去の自分自身や帰国した時に会う生徒さんの顔を思い出しながら、うまく伝えられるように試行錯誤しています。うまくまとまらないことや自分の知識の無さに愕然とする時もありますが、今私にできることをただ行います。

私の家には2匹の犬と2匹の犬と、ボーイフレンドがいます。家での役割として、一緒に暮らす人や動物が快適で安心して過ごせる環境を整えること、健康でいられるための食生活をマネージメントすることを結果に執着せず行う練習をしています。

感情的になることも利己的な気分に支配されることもありますが、瞑想やアサナプラクティスや呼吸法を駆使して(?)、自我意識ではなくもっと高い次元や波動とつながる努力を何度でも繰り返します。パートナーであれ子供であれ、ご近所さんや会社の同僚であれ、他者というのは私たちに気づきと学びへの試練を与えてくれる存在です。

「むかつく」と思っても、そんな外の世界のコントロールできないことに感情を振り回されるのではなく、「新しい気づきをくれてありがとう」という方向にシフトしてみます。最初は大変ですが続けているとそう思えてきます。ほんとうです。

アルジュナの役割

バガヴァッド・ギーターにおいて、アルジュナに与えられている義務と役割は、クシャトリヤとして、カウラヴァ一族の代表としてこのクルクシェートラで戦うことです。今回勉強した、3章18節,19節ではクリシュナ神は、アルジュナに対し「無私の行為なしにして、解脱という最高の境地にたっする望みはない」ということを教えています。

意思と感覚器官が二極に対立し、乱れている時に、ただ静かに座って瞑想しているだけでは、誰も悟りの境地へとは到達しないことはできません。

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