カルマの束縛から自由になるためには

前回は3章に入り、まだまだ教えを理解せず混乱するアルジュナの状態を表す詩節を紹介しました。今回は私たちが感覚器官による心の反応から自由になり解脱に至るには「行為のヨーガ」と「智慧のヨーガ」の両方が欠かせないことについて学んでいこうと思います。

カルマの束縛から自由になるためには

バヴァガッド・ギーター3章3節
The Blessed Lord said: In this world there is a twofold path, as I said before, O sinless one; the path of knowledge of the Sankhyas and the path of action of the Yogins.

聖なるクリシュナ神が告げられました。アルジュナよ。この世には二種類の道があると我は先に述べた。即ち、(純粋に静慮を行ずる)サーンキャ学徒のための智慧のヨーガ(ジナーナ・ヨーガ)の道と、無私の奉仕行為を行ずるヨーガ行者のための行為のヨーガ(カルマ・ヨーガ)の道である。

2節のアルジュナはサーンキャ・ヨーガの道を辿るべきか、カルマ・ヨーガの道を辿るべきか、それとも全てを手放しサンニャーシンとなるか、クシャトリヤの役割を果たすべきなのか、明確な答えを求めましたがクリシュナ神はここではまだ明確な答えは述べず、この世界にはサーンキャとカルマという2つの道が存在し、これらはヨーガ行者にとっての解脱への道であることを教えます。

バガヴァッド・ギーター3章4節
Not by non-performance of actions does man reach actionlessness; nor by mere renunciation does he attain to perfection.

人は行為をすることなくして、ナイシュカルムヤ(Naishkarmyam)と呼ばれる、行為から解放される境地に達することはない。また、行為の放棄(単なる禁欲・サニヤーサ)だけで成就(シッディ)の境地に達することはないのだ。

私たちがヨーガにおいて解脱の境地に達するためには、智慧のヨーガと行為のヨーガの両方を実修する必要があるということが述べられています。

智慧のヨーガと行為のヨガ

つまりただ机に向かい聖典を学び「真我とは魂であり、私はその一部で真我はすべての場所に偏在する」と言ったところで、それを経験によって理解していなければただの知識でしかありません。

そしてさらに「行為」を手放し、何もせずにただ静かに座り瞑想をしているだけでは、行為の束縛から自由になったとは言えないことが述べられています。悟りへと到達するためには知識だけでも行動だけでも不十分であり、両方が必要で、つまり智慧のヨーガと行為のヨーガは、それぞれ一つでは完全ではなく、補合うべきものだということです。

バガヴァッド・ギーター3章5節
Verity none can ever remain for even a moment without performing action; for everyone is made to act helplessly indeed by the qualities born of Nature.

一瞬たりとも、行為をしないでいられる者はいない。というのも、すべての人間は根本自性(プラクリティ)から生ずる特性(グナ)により、否応なく行為をさせられるからである。

私たちは常にカルマを行なっている

私たちの「思考・発言・行動」これら全ては行為(カルマ)であり、行為をしない人というのは存在しません。
行為の誕生である「思考」はとても精妙で目で見ることはできません。しかし思考が具体的に固まると「話す・書く」という表現によって知覚されます。行為の最後の段階が、実行であり行為そのものとなります。

“旅行に行きたい”

誰と行こうかな(思考)⇨こういうプランがあると相談する(発言)⇨実際に旅行する(行動)

私たちは体を動かさないことや発言をしないということは可能ですが、思考(心)の活動は常に続いています。瞑想中は体を動かさずもちろん会話もしませんが、思考は常に何かについて考え心は様々な対象物を求めて動き続けます。

三種の行為、即ち、身、口、意の行為のすべてが静止している時、はじめて人は行為の束縛から逃れて真の自由を得ることができるのである。そしてこの境地には、ただ利他の奉仕と無私の行為と、行為の結果を無視することとによってのみ到達することができるのである。ー シュリー・スワミ・ヴィラジェシュワラ先生著「科学で解くバガヴァッド・ギーター」より

カルマ・ヨーギーの心は行為に捧げられ、行為に専念しています。その心は感覚器官が対象物を求め彷徨うこともなく、行為の結果に左右されることもないので集中し安定しています。

カルマ・ヨーガの練習の第一歩

日常生活における小さな行いの一つ一つに意識的になることから少しずつ始めていきます。

一杯のコーヒーを淹れる、コーヒーを飲む、掃除をする、体の細部を意識しながら練習をする、裸足になって土や芝生の上を歩き、足の裏の感覚に意識を向ける。こういったなんということのない普段の行為に心を捧げ「今この瞬間」に意識を向けることが行為のヨーガの第一歩ではないかと思います。

行為に結果を求めるというのは、習慣のようにあまりにも当たり前に私たちに染み付いているので、手放すのは簡単なことではありません。どんな結果がもたらされた場合も「これは自分の過去の思考や発言や行いによってもたらされていること」と、ひとつひとつの結果を客観的に認め、その結果に入り込んで感情的にならないようにします。

望まないことや辛いことというのは起きますが、それはすべての人に起きることであり「私だけ」ではありません。どんなことにも理由がありますし、自分の力ではどうにもならない時もあります。「まぁ、いいか」「しょうがないよね」と心を切り替え、また思考や行為や行為に意識を向けます。

心は常に過去、現在、未来の三つのいずれかのことを考えている。例えば、心は過去の成功と失敗とを思い出し、現在の欲望を昴揚させ、将来の希望の実現を計画する。こうした心の動きを外からの力で止めることはできないし、外から抑制すればかえって自体が悪くなる。外部における行為を止めさせるだけでは、行為の束縛から逃れることはできないのである。むしろ欲望を昇華させ感覚器官の動きを心の中に閉じ込め、執着することなく行為を遂行しなければならない。ー シュリー・スワミ・ヴィラジェシュワラ先生著「科学で解くバガヴァッド・ギーター」より

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