カルマ・ヨーガ/私たちの義務と役割

カルマ・ヨーガ/私たちの義務と役割

バガヴァッド・ギーター2章39節
This which has been taught to thee, is wisdom concerning Sankhya. Now listen to wisdom concerning Yoga, endowed with witch, O Arjuna, thou shalt cast off the bonds of action.

アルジュナよ。これまでに説かれたのは、サーンキャ理論に基づく心理である。今からは、それを行ずれば行為(カルマ)の束縛を克服でき、神へ身を捧げつつ無心の行為を行ずるカルマ・ヨーガの教えを聞け。

クリシュナ神は絶対なる一元論の哲学を説いています。一元論とはつまり真我を知ることですが、2章29節でも書かれているように、優れた聖者から“説明を聞いても”真我を本当に理解することはとても難しいことです。なぜなら「真我と比較できるような無形の対象物や抽象的な観念」を知らなければ、相対的なことについてのみ考え想像できる私たちにとって真の理解にはならないからです

真我を理解するということは

例えば、マンゴーの味を説明する時、適当な言葉はない。「マンゴーは桃のような味がする」というのは事実に反している。「マンゴーはあまり甘くない。バナナほど甘くない。リンゴよりは甘い。桃のように酸っぱくはない。苦くもない」などという説明はマンゴーの味を何ら説明してはいない。最後に誰かが、「マンゴーはマンゴーの味がする」と言ったとすると、これが最良の説明であるが、実は何も説明してはいない。ーシュリー・スワミ・ヴィラジェシュワラ先生著「科学で解くバガヴァッド・ギーター」より

インドの素晴らしい哲学やヨーガの先生は、こういったシンプルで理解しやすい例え話が本当に上手です。

そしてシュリー・スワミ・ヴィラジェシュワラ先生はマンゴーの例えがお好きなようですね。さて、このマンゴーを食べたことのない人にその味を説明することと同じように、真我について知らない人に真我を説明すること、そして理解することはとても難しいことです。

一元論と二元論の真我の捉え方

一元論と二元論のそれぞれの理論の違いに意識を向けていたとき「真我とは何であるか」について一度大きく混乱したのですが、真我がアートマーかなのか、ブラフマーなのか、ということを一度忘れて「私たちは魂の存在」「真我は魂である」、そしては普遍でどこにでも存在している宇宙意識という風にシンプルに考えるとすっと混乱が鎮まりました。

私のような普通の頭脳のレベルの人間(涙)が聖典を勉強していると、理論が入ってこなかったり意識が遠くなってホワイトアウトしそうになる時が(頻繁に)あるのですが、そういう時は理論に対しあまり理屈っぽくならず、一度無視して先に進むと、そこにヒントや答えがある時があります。さらにその時は答えが見つからなくても1年後に理解できる時が来たりするので焦らず、ただ自分の目的に向かって勉強を続けるようにしています。

さて、バガヴァッド・ギーター2章33節から37節の間で、クリシュナ神はアルジュナに対し「クシャトリア(戦士)としての自分の義務を果たさなければどうなるのか」について語っています。

カルマ・ヨーガについて

もしアルジュナが戦いを放棄すれば、人々は彼の不名誉を永遠に語り(34節)、彼の部下たちはアルジュナが恐怖によって戦いをやめたと思い軽蔑するだろう(35節)。そして敵は(カウラヴァ一族)アルジュナについて、聞くに耐えない悪口雑言で罵るだろう、これほどつらいことはあるだろうか(36節)

アルジュナの義務

私は最初、このあたりの詩節で語られることについて、後の2章40節以降で説明されるカルマ・ヨーガでは

「行為の結果を完全に手放す」

ことを説いているのに、不名誉を語られることや部下や敵から悪口を言われ、一族に恥だと思われたとしても、結果の良し悪しにこだわらず手放すことがカルマ・ヨーガでは?矛盾では?と思っていました。

しかし、アルジュナが戦うという選択と行為によってもたらされる結果から逃れたいがために、自分に与えられた義務を果たそうとせず逃げることでどうなるのかをクリシュナ神が説明していると今は理解しています。

私たちには常に果たすべき義務があり、その義務に対し精一杯の行いを捧げたあとは、それによってもたらされる結果に執着をしないというのがカルマ・ヨーガの基本の教えです。導き手であるクリシュナ神は、果たすべき義務を放棄しようとしている(正しいカルマを行えていない)、アルジュナを進むべき方向へと進むよう説得をしています。

バガヴァッド・ギーター2章40節
In this there is no loss of effort, not is there any harm(production of contrary results or transgression). Even a little of this knowledge(even a little practice of this Yoga) protects one from great fear.

この、神へ身を捧げつつ無心の行為を行ずる道であるカルマ・ヨーガの道においては、完全に行為が行われなかったとしてもその努力が無駄になることはなく、失敗したとしても逆の結果が生じてくることもない。このカルマ・ヨーガの行法がごくわずかでも行じられれば、大いなる恐怖(輪廻転生)から人は救済されるのだ。

肉体は行為から完全に逃れることはできない

私たちは物質的な肉体をもっているので、食事や排泄や入浴や睡眠など、日常的に体の「世話」をしなければなりません。そしてこれらの世話も行為であり、私たち人間は全く行為をしないというわけにはいきません。

しかし心を鎮めること(心の動きを止めること)はカルマ・ヨーガ、つまり行為の結果を完全を完全に手放すことによって可能になります。

ーカルマ・ヨーガでは状況が不利か有利か、その行為が愉快か不愉快か、結果が良いか悪いかというようなことをすべて無視するのである。

上記した“これは矛盾では?” と理解できていなかったポイントですが、私の誤解が解けたポイントをここでもう一度説明をすると、アルジュナは戦うことを嫌がり(つまりこの行為を不愉快に思い)、敵側にいる家族や尊敬する人と戦うと地獄に落ちる(結果にこだわっている)ことを恐れている、つまりカルマを行えていないということになります。

ー状況が有利で、愉快で、結果が良くても、人は得意になるべきではない。また逆に、状況が不利で、不愉快で、結果が悪くても、人は意気消沈すべきではない。

自分が今いる世界は全て、自分の過去の行いによってもたらされています。どのような状況にあったとしてもそれにこだわらず生きることができれば、その人はその無執着の心で行う行為によって、失望したり傷つけられたりすることがなくなります。

カルマ・ヨーガの修練は難しいものですが、思考や行いや発言に意識的になり少しずつでも実践していくことで、恐怖を克服することができるとスワミジは仰います。恐怖や落胆、悲しみは、良いことのみを期待し、行為の成功を望むことによって生まれる結果に過ぎません。

自分にできることを全力で精一杯行なった後は、後にやってくる結果を完全に手放すことで、どんな事柄にも逆上したり感情的になることはありません。そしてカルマ・ヨーガの実践によって冷静で調和のとれた安心した心の状態で過ごせるようになります。

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