ヨーガの学びは「実践」することがなによりも大切

ヨーガの学びは「実践」することがなによりも大切

バガヴァッド・ギーターでは、私たち人間の本質は「智慧(ジナーナ)」ですが、その智慧は無智によって覆われていると説明しています。そして私たちが真我についての智慧によって無智を取り去る時、私たちの智慧は究極存在(パラム)を照らし出すと教えます。

バガヴァッド・ギーター5章15節
The Lord takes neither the demerit nor even the merit of any; knowledge is envelope by ignorance, thereby beings are deluded.

万所偏在なるお方は、誰の罪も功徳も受け取らないのだ。だが(人の内なる)智慧(ジナーナ)は無智さによって覆われており、そのために人は混乱しているのだ。

バガヴァッド・ギーターやウパニシャッドなどの聖典は非常にスピリチュアルであると同時に科学的でもあり、目から鱗が落ちるような教えに満ちています。しかし聖典からの学びを実際に実践していかなければ、自己のうちにある「無智」はいつまでも真我を覆ったままです。

神様(ブラフマー)は行為の善し悪しを判断することはない

さて、一般的に私たちは「良いことをしたら天国に」「悪いことをすれば地獄に」という考え方を刷り込まれて成長します。そして天国行きか地獄行きかを、それぞれの宗教がいうところの「神」が決定をしているかのような描写もされますが、これこそが「無智」であるとバガヴァッド・ギーターはいいます。

もちろんこのような道徳的な思い込みは私たちに善なる生活を送らせ、それによる間接的な恵みを得るという良い点もあります。しかし善人を天国へ導いたり、罪人を地獄に送ったりすることは神様とは全く関係なく「善いか悪いか」を決めるのは「行為」でしかありません。

もし神様がこうした行為を行うのなら、神様はその行為による苦痛や喜びを感じられるはずであり、そのような二極に対立する思いは神様を束縛することになります。そしてこれは神様の定義に反しています。

ここでいう神様とは「絶対者ブラフマー」であり、絶対者ブラフマーとは宇宙意識であり宇宙そのもののことです。ブラフマーは私たちの魂であり、至るところに存在しているエネルギーです。

神様は物事や私たちの行為について「善い/悪い」というような決定を下すこともなければ、それらを観察することもありません。森羅万象は自然の出来事であり、神様はそれに関心を寄せることも判断することも、影響をうけることもなくただ万所に偏在しているだけなのです。

バガヴァッド・ギーター5章16節
But to those whose ignorance is destroyed by the knowledge of the Self, like the sun, knowledge reveals the supreme(Brahman).

しかし真我(アートマン)についての智慧により無智さ(アジナーナ)が滅された者の場合は、太陽がこの世の物事を照らし出すが如くに、その者の智慧は究極存在(パラム)を照らし出すのだ。

無智は私たちの心の中にどっしりと居座り、心の中に(つまり私たちに)二元性を見せ続けます。二元性とは善と悪、光と闇、自己と他など、相対する2つのものが別々の存在で分離した感覚であり、すべての物事や現象を二極に対立させる原因です。

人は目覚めている時の経験を真実の経験であると錯覚し、熟睡している時や夢での経験を架空のものとして無視する。そのために人は、すべての経験を静慮の対象として取り上げて分析することもせず、かえって自分とこの世界とを別の存在と錯覚してしまい、この世を相対的なものと考える過ちから自分を解放させることができないでいる。ーシュリー・スワミ・ヴィラジェシュワラ先生著「科学で解くバガヴァッド・ギーター」より

相対的とは、他との比較によって成り立つ様子や価値のことですが、このような誤った考えを解放し、感覚器官の働きを浄化させるためにカルマ・ヨーガを行うことによって、輝く太陽のような智慧が自分の内側から光り輝きます。

智慧ある者は、異なったものを異なっているとは思わない。実際の便宜上から外観のさによって名前をつけて呼んではいるが、心の中ではすべてのものを同じように扱っている。ーシュリー・スワミ・ヴィラジェシュワラ先生著「科学で解くバガヴァッド・ギーター」より

 

二元性の考えを死滅させること

二元性のあるところには必ず恐怖が生じます。そのため、二元性の考え方が心から死滅することによってすべての恐怖(特に死に対する恐怖) が消え去ります。

聖者はすべての存在は神様(宇宙意識でありすべての源)の一部であり、自分自身の幸福を願うと同時にすべての生物の幸福をも願います。なぜなら自分自身も隣にいる他人も、同じ源を持つ神様の一部であると考えるからです。

なんだかすごいことですが、高次元というのは統合された全体意識であり、低次元とはバラバラに分離された意識という風に考えれば、魂レベルが高く高次の意識と繋がった聖者が世界をそのように捉えるのは当然といえば当然かもしれません。

私たちが、これまでの人との関わりや社会生活で当たり前だとしてきた常識が、真理ではないこと(アサット)ではないかと、叡智によってひとつひとつ見直し、必要でないものは取り去っていくことがヨーガの練習です。

自分の感情と対象物の特性とを混同しない

例えば、喜びを与えてくれる対象物は「善」で、苦痛を与える対象物は「悪」というような二元性によってもたらされることにもう少し意識的になり、これらの印象は対象物がもつ特性ではなく、見る側の心の中にある間違った想念(つまり主観)であることを知ることなどです。このパターンから脱出しなければ苦痛という経験の中から得ることができる真理や気づきを永遠に見逃してしまうでしょう。

外に起きていることに腹を立てたり、気分が悪くなったりすることは実際ありますが、これは私たちの心のなかで作り出している感情であり、対象物の特性ではありません。

噂好きの近所の人や、不誠実な職場の人など、こういった存在が行う行為はその人の無智(愚かさ)によって行われていることで、その人が無智なのはその人の問題です。そういった外の世界で起きる様々な現象に影響を受けないために、感覚器官の働きに意識を向け、心を制御することがヨーガの練習です。簡単なことではないかもしれませんが、絶対者ブラフマーの至福に近づくために魂を成長させるこれらの修練はヨーギーにとって非常に重要なことです。

 

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