ヨーガの練習と学びが人生を変える/ バガヴァッド・ギーター4章のまとめ

智慧による行為からの解放

目の前で起きている物事のなかに入り込まず、一歩下がったところから冷静に見ることができるヨーギーは、カルマ・ヨーガをすべての行為の拠り所にします。カルマ・ヨーギーは、行いによってもたらされる成功や失敗といった結果には執着せず、そのすべての結果をブラフマーに捧げます。

バガヴァッド・ギーター4章41節
He who has renounced actions by Yoga, whose doubts are rent asunder by knowledge, and who is self-possessed actions do not bind him, O Arjuna.

アルジュナよ。神への献身と無執着からなるヨーガによって諸々の行為を捨てた者と、智慧によってその疑念を消し真我の内に安らいでいる者とを、行為は束縛しないのだ。

バガヴァッド・ギーター4章42節
Therefore with the sword of the knowledge(of the Self) cut asunder the doubt of the self born of ignorance, residing in thy heart, and take refuge in Yoga. Arise, O Arjuna.

それ故に智慧の剣により無智から生じた内心の疑念を断ち切り、(献身の行為で神と霊的に交わる)ヨーガと頼りとして立ち上がれ、アルジュナよ。

一般的な人(俗世の人)というのは、行いの結果や行いに対する賞賛や批判というものに心を作用させてしまいます。
そして「失敗して怒られるかもしれない」「うまくできたことで褒められたら良い気分だろう」と、行為の結果に対して、この結果は良い(好ましい、嬉しい)、悪い(好ましくない、腹が立つ)というふうに、自分自身の結果に束縛されてしまいます。つまり物事を相対的に捉える過ちから自分を解放させることができないのです。

結果に対する執着を手放し、行いによってもたらされる全てをブラフマーに捧げることができるカルマ・ヨーギーは成功と失敗、賞賛と批判を同様に扱い、それらに心を乱されることもなく、自分の務めとしての行為を果たします。

カルマ・ヨーガとサーンキャ・ヨーガ

カルマ・ヨーガの道も、サーンキャ・ヨーガの道と同様に険しい道ですが自分の思考や発言が行いに意識的になる、つまり今その時にできる最善の思考と発言と行いを果たし、心を結果ではなく「行為=カルマ」に向けます。カルマ・ヨーガの練習を続け、少しずつ心が浄化されてくると、これまで雲のように私たちの心を覆っていた無智が取り払われ、智慧が輝き始めることで自分自身が魂の存在であるという気づきを得ることができるのです。

智慧に目覚めると共にどんな行為もその者を束縛できないので、さらに熱心に精力を込めて行為をし続けられるのである。それ故にアルジュナよ。心の中にある疑念を探し出せ。疑念が汝を破壊させるのだ。それらの疑念は無智さから生まれたのである。疑念は悪人の心の中にも、献身的な弟子の心の中にも必ず生きている。ーシュリー・スワミ・ヴィラジェシュワラ先生著「科学で解くバガヴァッド・ギーター」より

ヨーガの練習と学びが人生を変える/ バガヴァッド・ギーター4章のまとめ

私もそうですが、ヨーガの練習を身体的なアプローチから始めたという人は多いと思います。ハタ・ヨーガの練習を始めると、体の緊張や硬さがほぐれていきます。そして柔軟性がつくことで結構がよくなり代謝もあがります。そしてさらに練習を深めるために食事や生活習慣が変化することで体質にもポジティブな変化が起こります。

そしてここからはその人の人生の目的によりますが、体が浄化されたことによって、少しずつ内側、つまり心の浄化をするための練習へと意識が向かいだします。そして多くの経典や聖典の智慧を学ぶことで、私たちはこの世界を二元性で捉え、すべてを善と悪/光と闇/自と他として見ているという「思い込み」と「無智」に気がつきます。

聖師シャンカラーチャルヤ大師の説くヴェーダーンタ哲学(サーンキャ・ヨーガ)では、この世界(宇宙)において絶対者ブラフマー(ブラーフマン)という一つの実在原理しか認めていません。そして、それ以外の根本自生(プラクリティ)は真実性ではない迷妄(マーヤー)であると教えています。

この、一元論という最も高度な哲学を明確に理解し、頭ではなく心で信じることができるようになるために体系化されたプロセスを踏んでヨーガを学びます。

ハタ・ヨーガの練習も魂の乗り物である体を整えるために非常に大切な練習です。そして体を整えながら、心を整えるためにサーンキャ・ヨーガ(智慧のヨーガ)とカルマ・ヨーガ(行為のヨガ)によって学びます。

このように真理について学んでいても、私たちは「本当にこの宇宙はヨーガが教えているような仕組み(一元性)なのだろうか」「神様(ブラフマー)という概念は真実なのだろうか」という疑念が出てくるものです。

なぜなら私たちは物理的な肉体をもち、真実だとしか思いようのない世界を毎日見ているからです。そして目の前で起きていることに一喜一憂し、心を動かされながら生きているからです。

心をひとつの方向に定め、目的に向かわせ続けるのはとても難しいことですが、心に疑念が浮かんだらその度に体や心を浄化し、その疑念を打ち壊していくのがヨーギーの生き方であり、クリシュナ神がアルジュナや私たちに伝えていることです。

 

バガヴァッド・ギーターは5章へ

さて、これでバガヴァッド・ギーターも4章の終わりまでやってきました。

次回からは「行為の放棄」について教えられるバガヴァッド・ギーター5章へと進んでいきます。

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