利己的な心と行いだけで歓喜(幸せ)に到達することはない

利己的な心と行いだけで歓喜(幸せ)に到達することはない

子供は、行いや振る舞いはもちろんですが思考や発言も身近にいる大人、つまり両親や親類、教師や地域コミュニティなどから影響を受けます。もし利己的で偏った考えを持つ大人しか周りにいなければ、純粋な子供はその影響を受けてしまうでしょう。

クリシュナ神は自分自身の無私の行為を見せることによって、アルジュナにカルマ・ヨーガの本質を伝えようとしています。クリシュナ神は、自分の神性の本質を知らせず、彼自身はパーンダヴァ軍に、彼の軍隊をドゥルヨーダナに与え、自分自身の軍隊と戦うためにアルジュナの戦車を走らせています。

クリシュナ神にとってこの世で果たさなければならない義務や成し遂げなければならないことなど何もなく、どのような状況にあってもすべてのことに満足し、歓喜の境地にあるにも関わらず、完全に執着を手放した行為を休むことなく続けています。

バガヴァッド・ギーター3章26節

Let no wise man unsettle the mind of ignorant people who are attached to action; he should engage them in all actions, himself fulfilling them with devotion.

解脱したものは愚者たちに智慧の混乱を生じさせてはならない。解脱者は平等心を持って行為しつつ、愚者たちにあらゆる行為を喜んでさせるようにせねばならないのだ。

この詩節では、カルマ・ヨーギーが行為を手放しただ座って瞑想しているのを見れば、悟りの境地に至っていない私たちも「行為をすることは良くないことなのかもしれない」「なにもしないことが最も善いことだ」と考えてしまうと述べています。

なぜなら、悟っていない“愚かな”人は、利己的な行いをすることは罪を積み重ねていくことであり(アルジュナは戦うことを利己的と捉えている)、同時に利己的ではない行為をすることなど不可能であると考えてしまうからです。アルジュナもそう思いサンニャーシンになりたいなどと言い出しました。

しかしご存知のように、行いを手放すだけでは「何もしない」という境地に至ることはできません。なぜなら体を動かさないでいることはできたとしても「心(チッタ)」は常に動き続け、思考を作り出すからです。思考もカルマであり、このカルマを手放すことこそが難しいのです。

つまり「何もしない」というのは悟りの境地そのものであり、その境地に至るためにカルマ・ヨーガが必要なのです。

改めてカルマ・ヨーガについて考える

では改めてカルマ・ヨーガとはどういった行いのことであるかを復習していきたいと思います。

カルマ・ヨーガとは、感覚器官の働きと欲望を浄化させる最善の手段です。

自分がより多くの物や金銭を手にして快適な状態を手に入れる。つまりこのような自分の利益だけを中心にした「利己的」な行いというのは、感覚器官を満足させることによって一時的な幸せを得られたとしても、その幸福感は長続きしません。なぜなら自分の欲望をケアできていないので「もっと欲しい、もっと楽しみたい、もっと別の刺激を味わいたい」という感情がすぐに生まれ、その欲望を満足させるために利己的な行いを繰り返さなければならないからです。

アルジュナやドゥルヨーダナに対するクリシュナ神のような無私の行為、利他的な行いよってはじめて感覚器官と欲望は浄化されます。まずは自分の義務や役割を、行為の結果に捉われれることなくただ行うことがカルマ・ヨーガの練習です。

バガヴァッド・ギーター3章27節
All actions are wrought in all cases by the qualities of Nature only. He whose mind is deluded by egoism thinks,”I am the doer.”

諸々の行為はすべて、根本自性の徳性(グナ)により為される。それにも拘らず、我執(自我意識・アハンカーラ)に惑わされた者は「自分が行為者である」と考える。

根本自性(サーンキャ学派が主張する根本物質)の三つの徳性とは、グナのことであり、これらにはサットヴァ(純正/善性)、ラジャス(興奮/動性)、タマス(鈍性/暗性)があります。

全ての人にはこの三種のグナがそれぞれ異なったバランスで存在しており、その割合によって行為の性質にも影響を与えます。つまり行為はその人の中に存在する徳性(グナ)のバランスによって特徴づけられるということです。

しかし多くの場合(多くの人は)、根本自性である徳性(グナ)を認識することができませんから、行為の背後には自分の心が主体として存在するのだと考えます。そして行いと、行いの結果を自分自身と結びつけてしまいます。

そのため、何かで成功したり徳をすると大喜びし、たまたま失敗したときは落ち込み自分はダメだなどと傷つくのです。

 

しかしもしも、これは根本自性がすべての行為の実行者であり、根本自性がその結果を楽しんで引き受けているのだということを認識したならば、その者は芝居の観客のように傍からすべての出来事とその結果とを、即ち、成功や失敗を同じように皆して楽しみながら、自分の義務を遂行することができるようになれるのである。

ーシュリー・スワミ・ヴィラジェシュワラ先生著「科学で解くバガヴァッド・ギーター」より

少しややこしいのですが、ここで述べられている実行者である根本自性とは、つまり真我であり魂のことだと思います。そして魂には徳性(グナ)があり、その割合によって人生のテーマや目的が違いが出るということです。

魂は肉体を物質世界を生きる乗り物とし、その世界で起きていることを背後から見ているのですが、肉体を「自分自身」であると認識していると、成功や失敗といった行いの結果に入り込んでしまう、ということではないでしょうか。

ところで、カルマ・ヨーガについて説明されているバガヴァッド・ギーター3章では何度も「利他的な」「無私の奉仕」という表現が出てきます。

人に対して利益となる行い、つまり他者が幸せになる行い(善行)が利他の行いの意味ですが、これは自分自身をないがしろにして他人を優先するということではありません。まずは自分自身を安定させ満足させることが何よりも大切です。

自分自身の真の幸せと充足がなければ、どんな行為をしたとしても(それがどんなに他者にとって有益なことであっても)、行いの結果に対する他者からの評価や承認を必要とするからです。まず自分の心の状態を整えていなければ、利他的な行いの中に自己のエゴが投影されてしまいます。しかし同時に、自分の利益だけを考え他者を顧みない利己的な行いからは真の幸せを得ることはできないのです。

炎は活動を意味し、全ての不純物を焼き尽くし浄化する力があります。同様に行為の結果に執着しない行いは、純粋な動性(ラジャス)であり、心の不純物を浄化するのです。

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