心が浄化される行いとは

私たち日本人は、友人や知り合いからお菓子やフルーツなどの手土産を頂いた時、まず仏様(お仏壇)にお供えするという風習があります。インドでも寺院を詣でる際には果物や甘いお菓子を神様に捧げます。

また、家を建てるなど、家庭内での大切な節目には必ずパンディット(司祭)の方を呼んでプージャを行い、プージャでは神様にお菓子やお花や果物をお供えします。日本でも家を建てる際は地鎮祭などをしますが、インドや日本などの東洋の多くの国ではこういった風習が浸透しています。

心が浄化される行いとは

バガヴァッド・ギーター3章13節
The righteous who eat remnants of the sacrifice are freed from all sins; but those sinful ones who cook food (only) for their own sake verily eat sin.

護摩供養(ヤジナ)のお下がりを食べる善人はすべての罪を免れる。しかし、自分のためにのみ料理する悪人は罪を食べるのだ。

プージャなどの儀式で神様に捧げられたものは「プラサード」と呼ばれ、プラサードは神様によって祝福された食べ物とされます。日本人の私たちがお仏壇にお供えする果物や頂き物のお菓子などもプラサードと言えるでしょう。

私の実家では祖母が暮らしていた建物に仏間があり、お盆の時期になるとバナナやリンゴやブドウ、箱に入ったお菓子などがお供えされており仏間全体に甘い香りが漂っていたのを憶えています。

よく「西洋の社会は物質面で栄え、東洋の社会は精神面で優れている」と言いますが、私たちの魂に染み込んだ先祖供養の習慣や様々な神事などをみてみるとその通りだと思います。

西洋社会が亡くなった人を大切にしないとはもちろんいいませんが、ヨーロッパのカトリックが主流の文化圏に暮らしていて思うことは、やはり人間は死んだらそれまでという価値観の人が多いように感じます。

 聖者の行い

真我を知っている(宇宙意識ブラフマー/神との合一を経験した)聖者は、自分の行いのすべてをブラフマーの供物として捧げ、自分が持っているどんな小さなものもすべてプラサードか神様から頂いた贈り物として捉えています。

さて、インドで行われるプージャなどでは儀式が終わると、参加したすべての人にプラサードが配られます。神様からの祝福を受けた食べ物を皆で分かち合います。神様という言葉がピンとこない場合は、宇宙の肯定的なエネルギーによって浄化された食べ物という風にイメージするといいかと思います。

食べ物でも服でも道具でも、私たちが必要とする物質の量というのはほんの僅かです。必要ではない物を所有し物が増えていくのは、私たちが「本当に自分に必要なものとはなにか?」ということに無意識でいることによって、外の世界から入ってくる消費を促す情報を無防備に受け取り続けることが原因です。

自分自身をよく知る、つまりどんな種類のどんなデザインが本当に好きなのか、飽きずにずっと大切にできる形や素材とはなんなのかと追及することで、必要ではないものや自分に似合わないものを避けることができます。

自分と他者を比較し、多くのもの、あるいはより高価なものを持っていることが自分自身の価値であると思い違いをすることで、優先順位を見失います。必要ではない情報に所有欲を掻きたてられ、お金やエネルギーやその物資を置く空間を浪費します。

私たちは、与えられたプラサードを自分だけでなく周囲の人と分かちあい喜び合うことによって、所有欲や執着を浄化し手放すことができます。自分に必要な分をほんの少し手元に置いたら、残りを全てそれを必要とする他の誰かに与えることで、そのプラサードは誰が(犬や猫や牛や鳥であっても)食べても(所有しても)すべて神様からのプラサードとなります。

 

バガヴァッド・ギーター3章16節
He who does not follow here the wheel thus set revolving, who is of sinful life, rejoicing in the senses, he lives in vain, O Arjuna.

このように、回り続ける(相互依存と奉仕の)輪に従わぬ者と感覚器官(インドリヤ)を楽しませる罪ある者とは、空しく生きているのだ。アルジュナよ。

行為の種類

行為には2種類あるといいます。

・利己的
・利他的

利他の行為は、神への供物でありカルマを浄化することになります。

シュリー・スワミ・ヴィラジェシュワラ先生はバガヴァッド・ギーター2章のなかで「川」の利他の奉仕行為について説明されました。

欲深い人間たち

川の源流は実に小さい流れであり、無限の広さを持つ大海とは比べものにならない。大海と同じ水として生まれ遠くの山から発した川は、山岳、砂漠、谷を通って大きくなり、川という本質を獲得し、途中の人間、動物、植物、鉱物などすべてのもののために奉仕し自分を捨ててその義務を果たす。そして最期に川は、その本質を後に残して、大海に流れ込み、大海と一つになるのである。ー シュリー・スワミ・ヴィラジェシュワラ先生著「科学で解くバガヴァッド・ギーター」より

これは私たちが肉体を持った存在として誕生し、生涯を送り、最期は全ての源である宇宙意識ブラフマーの元へと還っていくことを説明していると同時に、カルマ・ヨーガについても書かれています。

私たちが目を開いて自然界を見てみれば、至るところに無私の奉仕行為を発見できます。オレンジやリンゴなどの果物をつける木は、将来のために何かを蓄えたりすることはありません。水を地中から吸い上げ、葉を通じて呼吸と光合成をし、果実を育てます。そして、誰にでも平等にその果実を取ることを許します。果物をもぎ取ったからといって木は私たちを追いかけてきません。追いかけてくるものがいるとすれば、その果物の木を所有している人間でしょう。

本来人間は霊長類を代表する存在でなければならない

牛は乾いて役に立たない草を食べて牛乳を出す。言い換えれば、最も粗末な原料から最高の食物を創り出しているのである。人はしばしば動物に対して残酷なことをするが、動物はすべての虐待を辛抱している。最も恩知らずの動物である人間は、他に利用の道がなくなると喋ることのできない動物を無慈悲にも屠殺しその肉を食い、皮や肉や骨を売って金を儲けているのである。ー シュリー・スワミ・ヴィラジェシュワラ先生著「科学で解くバガヴァッド・ギーター」より

人間を含め、全ての存在は無私の奉仕の原則という宇宙の法則に基づいて存在しています。私たち人間だけがこの法則の例外なはずはありません。

私たちもまた宇宙の万物の一部です。そして与えられたその智慧にふさわしい行い(つまり他の生物に親切であり、地球環境を保護する)をするべきではないでしょうか。

それにも拘らず、人は人生の目的を忘れ(見失い)、智慧を悪用し自分の感覚器官や欲望を満足させることにだけ夢中になり、物質や自分の肉体を真我であると信じています。そういった無知や思い違いを取り除くためには、自己の行いに意識的になること、利他の行いによって行いを供物にすること、つまりカルマ・ヨーガの実践が役に立ちます。

最新情報をチェックしよう!