心の障害となる5つの苦悩 Ⅲ

心の障害となる5つの苦悩 Ⅲ

変化し続ける世界にあるすべてのものの中で、最も「自分の本質(アートマー・ブランマン)」「全てを観る存在(ドラシュター)」に近いところにあるのが「感覚と心」です。近い場所にあるからこそ、私たちはつい「感覚と心=自分自身」だと思い込み、これらを同一視し心に苦悩を作り上げてしまいます。

「心の障害となる5つの苦悩Ⅰ,Ⅱ」でアヴィッディヤー(無知)とアスミター(エゴ/自我意識)について学んできました。さて今回はこの後に続く残りの苦悩とは一体何か、それを一緒に勉強していきたいと思います。

オンライン寺子屋ヨガ

パタンジャリ先生は「ヨーガスートラ」の2章3節のなかで私たちの心を苦しませる5つの原因について説明しています。 目次 1…

オンライン寺子屋ヨガ

目次 1 心の障害となる5つの苦悩 Ⅱ2 アスミター(自我/高すぎる自意識)3 「私」を主体にした思考に支配されると4 …

ラーガ(執着/欲望)

向井田みお先生はヨーガスートラの中で「何かを望み求めることは、人間がもつ特別なシャクティ(能力)であり可能性です。」と説明しています。私たちはなにかを望むことによって、目標をもつこと、何かを手に入れるために学んだり努力をしたりすることができます。

私の場合は無知を取り除き、自分の本質であるアートマーであることを理解するためにヨガを学び実践しているのは少しでも悟りに近づきたいという欲望があるからです。

しかし何事にもバランスがあります。心を支配する程に望みが強くなりすぎると「望みを叶えるためにはどんなことでもする!」というように望みが執着へと変わります。

より良い魂へと成長するために学びを得たいというのは純粋な欲望といえますが「喜びや快楽をいつも手にするためなら何だってやる」というラーガ(激しい欲望)は、苦しみや怒りや悩みという苦悩となり、それらは心の障害となります。

純粋な欲望とラーガの違い

魂の成長のために学びや経験を得たいという欲望と、自分の自我(エゴ)を満たすために何かを手に入れたいと執着すること、これらはどちらも「何かを望んでいる」という意味では同じようにみえますが、性質が全く異なります。その大きな違いは純粋な欲望には心の障害となる苦悩を作り出さないということではないかと思います。それに対し、快楽への執着(ラーガ)は苦しみをもたらす煩悩となるのです。

ラーガ(欲望/執着)については仏教の三毒(貪・瞋・癡)でも触れられています。貪(とん/貪り)をサンスクリット語にするとラーガになります。

「あれもしたいこれもしたい」「あれが欲しいこれも欲しい」「あの人はこんなものを持っている」「あの人はあんな車に乗っている」といった貪り、必要以上に求める欲に満ちた心のことだと説明されています。こういった何事かに心を奪われるほど執着した状態は苦しみを作り出し、それらが手に入ると新たなものを求め、手に入らないとストレスや怒りになります。

私たちは、求めている真の幸せや自由が常に私たちの内側にあることを忘れ、外にある快楽から幸せを得ようとします。外界からの喜びを得ようとすることで、私たちは「執着」した状態になり、執着しているものが手に入らなかったり、あるいはそれらのものが自分を期待したほどには幸せにしてくれないとわかると、今度はドゥヴェーシャ(憎しみ)を作り出します。

ドゥヴェーシャ

「自分とは何か」を問い続け自己の本質を理解することによって、私たちは自由であり続けることができるとヨガでは教えています。
外の世界で起きている物事や日常生活において関わる人たちを主観的な感情のままに見ていると、現象や物事、人を「好き・嫌い」で分けてしまいます。そして好きなものは欲しい、嫌いな人は避けたいという望みをもって物事にリアクションするようになります。

主観的な姿勢で物事に接していると、起きる現象に対し自分からの一方的な反応しかできなくなります。なんらかの事情があってとった誰かの行動の本意を、常に自分の主観だけで捉えていることによって見えず、物事や人に対して好きだ、嫌いだ、嬉しい、腹が立つという反応となり、そういった主観的な言動パターンが習慣化するといずれ対立や摩擦を生み出します。

三毒の、瞋(じん/怒り)はサンスクリット語でドゥヴェーシャになり、腹が立つ、ムカつく、嫌だ、うっとうしい、めんどくさい、辛い、これら物事に反発する感情が心を苦しめると説かれています。

アビニヴェーシャ(失うこと/死への恐怖)

「私たちは本来的に体、物、能力や状況、何かを失うことの恐れを持っています。生きた体を失うことが死であり、死への恐怖は強い身体感覚に刻まれています。私たちはいずれ何かを失うことを知っています。そして死を体験する不安と恐れは全ての生き物が持っている」ーヨーガスートラ/向井田みお先生著

今生きている全ての生物は、当然ながら今持っている体での死を経験したことはありませんし、過去生での死の経験を覚えている人もあまりいないと思います。シュリー・スワミ・サッチダーナンダ先生はインテグラル・ヨーガの中で、すべての経験はチッタの中に貯えられていて、私たちの本能は過去に何百、何千と輪廻転生を繰り返し死を経験しているからこそ「一つの体に入り込むやいな、これほどまでにそれを愛しみ、それを残して去ることを恐れるのだ」と書かれていますが、正直全くピンときません。

アビニヴェーシャについて勉強するたび、経験したことのない「死」を想像する際、私たちはあまりハッピーな状態と結びつけて考えないがために、恐れが心に現れるのだろうか? などとも考えてみるのですが、個人的には「死へ恐怖」よりも「失うこと」のほうがより強い恐怖となっています。例えば大切な存在を永遠に失うこと、このことが自分自身が死ぬことの恐怖より優っているように感じています。アビニヴェーシャに関してはまだ勉強不足なので、新しい理解がやってきたら記事を改稿しようと思います。

 

 

以上が3回のシリーズとして勉強してきた「心の障害となる5つの苦悩/パンチャ・クレーシャ」です。

次回は「モークシャ(自由、悟り)」にフォーカスしていきます。

 

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