欲望の原因と結果には常に二元性がつきまとう

ヨーガの修練において「自分自身を肉体の存在である」と思っている発展途上の初心者(つまりほとんどの人)は、まず、結果に執着しない行為を行うことが最良の道だと教えます。

バガヴァッド・ギーター6章2節
Do thou, O Arjuna, know Yoga to be that which they call renunciation: n one verily becomes a Yogi who has not renounced thoughts.

アルジュナよ。行為の放棄(サニヤーサ)と呼ばれているのものは、ヨーガと同じものなのである。というのも、渇望を棄てぬ者はヨーガ行者たり得ないからである。

カルマ・ヨーガは、すべての存在は絶対者ブラフマーであるとみなし、すべての行為をブラフマーに捧げます。行為の放棄(つまりカルマ・ヨーガ)の修練によって、二元性の存在を否定し心のすべての働きを放棄することができるといいます。

何度か触れていますが、二元性によってもたらされる好き/嫌い、幸/不幸、成功/失敗、豊かさ/貧しさ、健康/病気、といった二極に対立する感情に心を動揺させているうちは、どうしても結果や目の前で起きている現象に執着をしてしまいます。

多くのものを所有しそれらに囲まれた暮らしをしていると、最小限のものだけを所有し何もない部屋で暮らしている自分を想像できません。そして、何が必要で何が必要でないかを深く考えない生き方をしていると、感覚器官を通して入ってくる情報にたちまち心は刺激され欲望が芽生えるでしょう。

「あれが欲しい」「これが手に入ったら幸せになる」欲望の原因と結果には常に二元性がつきまといます。「これを手に入れることができる自分は豊か/ これが買えない自分は貧しい」「これが(あるいは様々な状況)あるから私は幸せ/ これが(あるいは様々な状況)ないから私は不幸=価値がない」

聖典では欲望、情欲をもつことを良しとせず「私は執着もなければ欲望もないと断言せよ」と書かれていたり、多くの優秀なスワミジ達によって解説もされています。私もすべての欲望から解放されたら、どれほどの歓喜と自由を感じるのだろう、とすごく憧れます(これもまた欲望ですが)。

そして、そのためにヨーガを学んでいますが、実際には意思(マナス)に振り回され心が乱れることはしょっちゅうですし、物質的あるいは感情的な欲求もなかなかどこかに行ってくれません。

しかしそれがどれほど難しく不可能に思えても、自分の中にある無智を少しずつ拭い去り、自分自身の表面ではなく深い部分を見ていく努力をしなければ、いつまでもこの肉体を真我だと捉え、二極に対立する感情から自由になることはできません

肉体が若くて健康な時代は、心が十分な成長をしていないために苦しみ、経験を重ね心が成長する頃には若さや美しさは陰りを見せだすでしょう。健康で美しい若い時代を楽しむのはとても素晴らしいことです。しかし、そのような時代はすぐに終わり、やがて老いや病が肉体を占領します。智慧によって心を育てることをしてこなかった魂は未熟なまま、肉体的な喜びを味わえなくなった体で、若い時代の情欲を懐かしむことに時間を費やします。

バガヴァッド・ギーター6章30節
He who sees Me everywhere and sees everything in Me, he never becomes separated with Me, nor do I become separated from him.

我を一切の内に認め、一切を我の内に認める者にとって、我は決して見失われることがなく、また我もその者を見失うことはない。

この詩節では絶対者ブラフマーを至るところにみることができる者は真に我(クリシュナ神)を見ていることを教えています。そしてすべてのものをブラフマーと見るヨーギーは世界を第三の眼、つまり智慧の眼で見ていますが、一般的な人は肉眼と意思(マナス)の影響を受けた心でみているとシュリー、スワミジはおっしゃいます。

「肉体を真我だとは思わないけれど、かといってすべての存在にブラフマーを見ることはまだできない」という私のような段階のヨーギーも多くいると思います。

クリシュナ神はこの段階を抜けるためにはアビヤーサとヴァイラーギャが必要であることを6章35節のなかで説かれますがこれについては、次回取り上げていこうと思います。

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