欲望の本性とヨーギーの選択

欲望の本性とヨーギーの選択

前回は、私たちが心では調和や安らぎを求めながらも、感覚器官の欲望を満足させるために多くの時間を使い、物質的価値観に翻弄されていることについて勉強していきました。今回はこの終わりのないパターンから抜け出すにはどうすればいいかについて一緒に考えていきましょう。

バガヴァッド・ギーター2章68節

Therefore, O mighty-armed Arjuna, his knowledge is steady whose senses are completely restrained from sense-objects.

それ故に戦士アルジュナよ。すべての感覚器官がその対象物へと向かう働きを制御し得た時、その人物の智慧は不動のものとなるのだ。

さてこの詩節では、外界へと向かう性質をもった感覚器官の動きを収めることがいかに重要で、同時にそれがいかに時間のかかる大変な作業かについて述べられています。

私たちは同時に複数の行いに集中することは困難です。例えば本を読みながら話を聞いたり、電話で誰かに向かって話しかけながら同時に目の前にいる人の話を聞いたりなど。

心が外に向かっていれば、内側にある真我(アートマー/ブラフマー/魂)について集中することはできませんが、反対に心が内側へと向かっていれば外の出来事を見たり聞いたりすることもできなくなります。

真我とはつまり私たちの魂であり、宇宙意識そのものであり絶対者ブラフマーですが、その真我は私たちの内側にあります。体という魂のお寺(容れ物)の中に存在しています。

真我を知るためにはすべての感覚器官の働きを外から内側へと引き戻し、意思と感覚器官の働きを連結させて、自分の内側にその働きを集中させなければならない。ー シュリー・スワミ・ヴィラジェシュワラ先生著「科学で解くバガヴァッド・ギーター」より

シュリー・スワミジはこの真我とつながる状態を非常に楽しい素晴らしい体験であり、この状態を1度でも経験すれば、外の世界にある物質的な存在や、絶えず繰り返される悲惨な出来事に感覚器官の働きを向けなくなると述べられています。

感覚器官の本性は外界に向かって働く

感覚器官の働きと外の世界にある対象物(物質的なものすべて)は、ヨーガの実践によって心を内側へと留めようと頑張る私たちを、あの手この手を使い外の感覚世界へと引き戻そうとします。なぜなら外界に向かって働くように感覚器官はできているから。

これは私たちヨーガ行者にとって長い修練の道のりです。私たちは繰り返し繰り返し、この感覚器官の働きに向き合い克服していかなければなりませんが、力によってねじ伏せるような無理に欲望を押さえ込んでもいい結果にはならないでしょう。

それでは、どうすればいいのでしょうか?

ヨーガ行者は思慮分別をもって注意深く欲望を取り扱わなくてはならない。いわば感覚器官の働きは、力ではコントロールできない若者と同じなのである。非行に走る若者を力づくで変えることはできない。しかしそうした若者を説得して、なぜ善良でなくてはならず責任も取らなければならないかを理解させ、自分が間違いを犯した場合には若者の年齢と力とに応じて、その立場を考えながらその誤りを指摘するならば、その若者を責任を分担できる市民へと育て上げることができる。

しかし、その若者に暴力を持って対処するならば、若者の方もまた私たちに反抗して敵にまわるだけなく、その若者自身もその身を滅ぼしてしまうことになる。ー シュリー・スワミ・ヴィラジェシュワラ先生著「科学で解くバガヴァッド・ギーター」より

欲望の本質とは

「新しい物を手に入れたい」「他者からこのように見られたい(思われたい)」という自分の欲求の本質をよく知り見極めることが大切です。ある一つのことをどんなに楽しんでいても、新しい欲望は次々に生まれ、私たちの心を夢中にさせようとします。

私たちは何かを手に入れたいという願い(欲望)を持ち、それが手に入るとしばらくの間は満たされた思いでいっぱいでしょう。新しいコートや欲しかった美しい靴を手に入れ、初めてそれらを身につける時は幸せを感じるでしょう。しかし、それらの物質と1週間、1ヶ月と過ごしているうちに、手に入れたくてしょうがなかったそれらの物は普通の当たり前のもの、これまでに買ってきたその他のものと同じ価値に成り下がってしまいます。それは私たちが、どのような環境や物にも「慣れる」性質を持っているからです。

新しく引っ越した部屋や周辺の環境に新鮮さを感じわくわくするのはせいぜい2週間程度で、そのあとはそれまでの日常と慣れ親しんだ感情が戻ってきます。私たちはどんなことにも「慣れ」、いずれは「飽き」ていくのです。この慣れと飽きによって私たちは次から次へと新しいものを求め、そういった新しい刺激(物や環境や人間関係)が次こそは自分を幸せにしてくれると期待します。

この慣れは私たち人間の習性です。どんなに物質的なものに期待しても幸せになれないどころか、ものが増え複雑になっていくだけです。新しい服や靴を手に入れ、高級車に乗り、高層マンションに住む、こういった物質へと欲望が向かうのは、それらが自分を幸せな気持ちにさせてくれると勘違いし、所有している自分には「価値」があると証明できると思い込んでいるからです。

1万円の靴も10万円の靴も、手に入れた瞬間同じように同じスピードで慣れて、飽きていきます。高級車が納車されキーを手にした時の興奮と幸せは1年後にはすっかり消え去り、新車の広告や動画を目にすると意識と欲望は向かっていきます。これが私たちの習性であり欲望の本質です。

全ては外ではなく内にある/ヨーギーの選択

繰り返しになりますが、外界にあるすべての物質や経験に私たちは慣れいずれ飽きていきます。幸福を外に求めてしまいがちなのは、その方が簡単で自分も満足できると思ってしまうからです。

感覚を外ではなく内に向ける。これは非常に時間のかかることで辛抱が必要です。多くのヨーガ行者でも感覚器官を満足させることに夢中になり真我(アートマー/絶対者ブラフマー/魂)の探求を辞めてしまうことがあります。

「感覚器官を喜ばせる」これが、大多数の人の選択で生き方です。

人と異なった道を進もうとすることは、水から出てしまった魚と同じようになることなのである。しかし真のヨーガ行者は大衆の中の1人では決してない。ヨーガ行者は稀に見る例外的な人物であり、獅子の持つ勇気と子羊のしなやかさと同じ精神を持ち、ヒマラヤの山々の如くに堅忍不抜な精神の持ち主なのである。

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